神様は鳥からセックスを学んだ

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古来、日本人は性をおおらかに楽しんできました。歴史をひもとけば、国が生まれたのは神様の性交の結果で(そしてそれは後背位でした)、奈良時代の女帝は秘具を詰まらせて崩御。豊臣秀吉が遊郭を作り、日露戦争では官製エロ写真が配られていたのです。

中国の性書にそっくりな日本の始まり

日本人で初めてセックスした男女といえば、いうまでもなくイザナギとイザナミである。日本最古の資料である『記紀』、すなわち『古事記』と『日本書紀』によってその場面を復元してみると、両書ともに天地創造の場面に続いて、2人による「国生み」のエピソードが語られている。

712(和銅5)年にできた『古事記』の場合、イザナギが「自分には成り成りて成り余れるところがある」と語ったところ、イザナミは「自分には成り成りて成り合わぬところがある」と答えたので、イザナギが「汝が身の成りあわぬところを刺し塞いで国生みをなさん」といって関係したという。
これに対して8年後の720(養老4)年に成立した『日本書紀』の「神代編」にはイザナギが「自分には陽の元といわれるものがある」といったのに対して、イザナミが「自分には陰の元がある」と答えたので、イザナギは「自分の陽をあなたの陰と合一させよう」といって関係したとある。

『日本書紀』の「陽の元」「陰の元」という表現に比べると、「成り成りて成り合わぬところ」とか、「汝が身の成りあわぬところを刺し塞いで」といった『古事記』の記述の方がはるかに生々しく、わいせつ感が漂っているように感じられる。これは『古事記』が稗田阿礼という1人の語り部による物語であるのに対して、『日本書紀』は大和朝廷が「正史」を残そうという意図のもとに編さんしたものだから、きれいごとの表現になったのだろうと推測されている。

ところで2人は「天の御柱を回って、出会ったところで関係を持った」のだが、『古事記』と『日本書紀』では柱の回り方が反対になっていて、『古事記』の場合、「イザナギは天の御柱を右から、イザナミは左から回って」とあるのに対して、『日本書紀』ではイザナギは左転、イザナミは右転したことになっている。いずれにしろこうして最初に淡路島が生まれ、続いて四国、九州、本州などが次々に生まれたのであった。
その意味では「国生みの神話」は日本の発祥を示す根幹のエピソードだが、実はこの話には出典があって、紀元600年頃に成立した中国の『洞玄子』という本の中に、「天は左に転り、地は右に廻る。男唱えて女和し、上為して下従ふ。此れ物事の定理なり。故に必須男は左に転り、女は右に廻り、男は下に衝き、女は上に接すべし」

という一節がある。男が左回りで女が右回りという点など、『日本書紀』の記述は明らかにここから採られたと思われる。さらに付け加えると、『洞玄子』は古代中国の代表的な性の指南書である。つまり日本創世の神話は中国の性書からパクったものというわけである。

セキレイが神にセックスを教えた

ではこの時、2人はどんな体位で関係したのだろう?
『日本書紀』の「神代編」には各地に書き残されていた伝説や噂話などが「一書に曰く」という枕書きとともに羅列されている。その中のセックスシーンをそのまま解釈すれば、立ったまま、すなわち立位で関係したと想像するのがもっとも自然だろう。しかし、その中に1つだけまったく異質の記述が見られる。

「(イザナギ、イザナミは)遂に交合せんとす。しかし、その術を知らず。時にセキレイありて、飛び来たりその首尾を揺す。二柱の神、それを見て学び、即ち交の道を得つ」

というのである。2人がどうやって関係したらいいのか分からずに困っている時、セキレイがつがいで飛んできて、頭や尻尾を震わせながら交尾した。それを見た2人はセックスの仕方を学んだというわけである。小鳥の交尾は後背位であるから、それに学んだイザナギ、イザナミも当然ながら後背位で結ばれたはずである。つまり日本人のセックスは立位ではなく、後背位からスタートしたということになる。
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その結果、日本の伝承の中ではいつしか立位説は無視され、後背位説が脈々と受け継がれることになった。たとえば静岡県三島地方や広島県などではセキレイを神の鳥と称し、みだりに捕まえてはならないものとされている。その理由は神に交合の道を教えた万物の師であり、神の使い以上の存在とされているからという。これに類する風習は熊本県南関地方や岐阜県高山地方でも報告されている(能田太郎編『肥後南ノ関動植物方言及民俗誌』一言社、ほか)。
『倭訓栞』は江戸時代中期の国学者谷川士清が著わした国語辞典だが、その中で士清は伊勢神宮の神衣である「大和錦」にはセキレイの模様があると指摘している。神衣とは伊勢神宮がこの地に創建された時に、同時に納められた衣類を指し、「大和錦」という言葉には「日本で初めて織られた錦」という意味合いも含まれている。そこにセキレイの模様が織り込まれているとすれば、お伊勢さんでも日本人に初めて後背位を教えてくれたセキレイを特別なものと見なしていたのだろう。

小笠原流といえば室町時代から礼儀作法の流派として知られているが、故実にもとづく冠婚葬祭の作法を武家などに教示するようになったのは江戸時代初期である。新婚初夜の決まりごともその一つで、寝所に比翼枕、犬張子、乱箱、守刀、セキレイ台などを置き、床盃が行われることになっている。それが終わると新婦が先に、新郎が続いて床に入るという。
セキレイ台というのは床飾りの一つで、全体は島の形をしている。台上にはセキレイの一つがいが飾られ、根固めとして岩が置かれているというものである。これもイザナギ・イザナミの故事に習ったもので、新婚夫婦が上気してうまくいかない時、これを見て落ち着くようにという配慮から置かれたものといわれている。
江戸の町民も小笠原流にならったか、セキレイ台が結婚式の調度品として欠かせないものになった。

これに対して加賀藩前田家の場合、初夜の儀式は水島流という礼法にのっとっていたが、ここではセキレイ台の代わりに、長さが85センチメートルという長い枕が用意されていた。
これは常識的にいえば、花婿を迎え入れるために花嫁が腰の下にあてるものだろうが、セキレイ台の代わりなら後ろ向きになっている花嫁のヒザの下にあてて、花婿の動きを助けるようにできていたのではないかと想像されている。こうして初夜の後背位という伝承が連綿と受け継がれてきたのである。
一方、セキレイに関する文献資料としては1254(建長6)年に成立した『古今著聞集』巻八の「好色第十一」に、「イザナギ、イザナミの二神婚嫁の事」として、この故事が紹介されている。しかしその後はなぜか、セキレイの体位について語った文献は見当たらない。

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